韋 駄 天
(昭和30年代前半に箱根駅伝を走った、東農大の選手の箱根駅伝体験記)

 赤ゲットの大失敗

 11月の下旬のある寒い日であった。横浜市鶴見から大手町間の10区の試走に出かけた。この練習はコースの下見と受け持ち選手を決める為のものである。従って試走時間も大会当日の時間に近い時間帯で行う。その日の昼食は早めに済ませ京浜東北線で鶴見まで出かけた。
 伴走するジープと先輩・マネージャーは学校から車で出かける。ジープの前後には大きな字で『駅伝試走中』という横断幕を張り、信号交差点においてポリスに止められる事なくスムーズに走行出来る様に、ランナーを誘導しラップタイムを取りながら、且つ最高のコンディションが得られる様に支援する役目を持つのである。
 試走は、その前日及び当日のスタート前にコース状況を、よく確認して頭にきっちりとインプットする。
 鶴見のスタートは1時頃であったろうと記憶する。第1回目の試走はコース状況の把握の為であり、やや流したスピードで実施する。大手町には2時30分頃の到着を見込んでいた、距離は21.3q程だ。
 試走は順調に進んだが、事件は後半銀座が近づいた頃に起こった。
 当時、銀座界隈は商業地区でトラックの侵入が禁止されていた事、駅伝試走に使用されたジープはトラック扱いであった事などあって、芝の増上寺を過ぎた頃からジープは走者に併走することが出来ず、別ルートへと離れていった。
 試走の部員の出身は東京都ではない、所謂田舎者である。東京の地理には極めて疎い、スタート前に地図を頭に叩き込んだが、実際の風景は始めて見る者ばかりで、何処をどう走っているのか段々心配になって来る、
 もうそろそろゴールであろうと思われるが、それらしき建物(読売新聞社)が見当たらない。先行したであろうジープも見当たらない、ウロウロする内に山手線の有楽町駅に出た。仕方がない駅員にお願いをして渋谷まで乗車させて貰う事とした。財布は持っておらず駅員の好意により無賃乗車を認めて貰った。
 乗客はコートを着た冬装束の者がほとんどである。
 一方、我々は汗に濡れた長袖シャツに短パンのみである。車内は暖房されているが、寒い、実に寒い、歯がカチカチと鳴る、乗車時間が通常の何倍かに感じられた、寒い。特に乗客の視線からは逃れることが出来ず、一刻も早くこの状況から開放されることを念じながら震えていた。
 精神的にも肉体的にも大変疲れていたが、渋谷からは学校まで走って帰った。
部室へ着くと先輩諸氏から正座を強要され、制裁と小言を頂戴する羽目となった。この為か、このメンバーから10区の選手は誕生しなかった。

 間食は農場からの失敬品

 敗戦後10年、まだ一部では戦後の貧しさを引きずっており、十分な栄養状態ではなかった。学内で行われる合宿の場合は、合宿所と部室に分かれて宿泊するが、食事は学食で3食を頂いた。
 私が入学した昭和31年から学内に栄養学科が設けられていたが、運動量の多いスポーツ選手は1日に何カロリーで、何の栄養素を摂取しなければならないといった指導も教示もない、我々も唯腹いっぱい米穀を詰め込むことで善しとしていた。朝食は一膳目のどんぶり飯を如何に早く食べて、2膳目のお替わりをするか、その為に熱い飯を冷ます目的で生卵をかけて流し込む。遅れると2膳目の飯にあり付けなくなる。従って、まず飯を平らげ・後に副食物・みそ汁を頂くことになる。
 昼食・夕食に於いても朝食と同じで、如何に早く多く食べるか正に戦場である。
 2膳目にあり付けない日は、空腹を満たしてくれる材料が大学に隣接している用賀の農場にある。ここには実験用のサツマイモ・ジャガイモといった農作物を栽培している。これをチョイト失敬してきて部屋で蒸かして腹に収めるのである。蒸かす鍋は洗面器を用いた。朝は洗顔、昼は洗濯、夕方はお風呂のお供である、夜は鍋に早代わりする、実によく働く洗面器である。このサバイバル的行動は我々が敗戦後に培ったものだと思う。

 栄養補給は区民から

 前述の様な食生活だけでは、激しい運動選手にとっては栄養失調気味になるのであろう、しかしそれを補ってくれたのが、早朝のジョッギングである。
 起床5時半、洗顔の後、トレーニングシャツ姿で柔軟体操と5q〜10q程のジョッギングに出掛ける。その日のコースは先頭のものが決める、まるで野良犬の行動と同じだ、そろそろ帰路に就こうという頃、住宅地の門前に置かれている納豆・牛乳といった栄養価の高いものを失敬して腹に収める。同じ場所を通るのは1ヶ月に1度ほどの為、咎められた覚えはない。
 社会情勢を知る方法の1つである新聞についても、この方法で用を足していた。
 世田谷区の方々には長年に亘り大変ご迷惑を掛けたこと、今でも其処を通る時はうつむき加減になる。

 ランニングシューズ

 『走る』為のシューズを購入したのは、高校1年生の頃であったと思う。
 それは、無法松の一生に出てくる主人公の車夫が履く『地下足袋』と同じように、指部分が二股になっていた足袋型のシューズ?であった。
 大学の陸上競技部に入部して最初の買物はやはりアップシューズであった。
新宿歌舞伎町近くに西スポーツ店があり、そこで練習用に2足購入した。その靴は踵とつま先を革で補強し、底部分が生ゴムで加工されたズック製のものであった。ズックはある程度使い古せばよいが、新しい間は水分を含むと固くなり足を痛める。
 試合用としては、オニツカで足形に合わせた軽い皮革製のものを作成したが、これが当時の学生生活の1ヶ月分近い値段で容易に手が出なかった。この靴に足を慣らすために、天候の良い日を選んで2・3回ロード練習に使用し、試合のときまで温存した。
 しかし、試合当日に雨が予想される場合はズック製の靴を使用した、というのは皮革製のシューズは水分を含むと、簡単につま先部分が破れ1試合で靴を駄目にしてしまうからである。
従って試合に出掛けるときは、ズック製のものと皮革製のものとを持参して、お天気と相談の上シューズを決めることとなる。

 これ、サポーター?

 当時の男子用の下着は、サルマタが大多数で中にはフンドシの者も居た、現在の様にブリーフがあればここまで苦労はしなかったであろうに。
 スポーツ用品店で求める下腹部用のサポーターは、汗を吸収すると硬くなり内股が擦れ、不快感を伴う場合が往々にしてある、これに替わるモノが無いか色々と試したところ、競泳用のパンツが良いことが判ったが、しかしサポーターとして使用するには値段的に高すぎた、そこで注目したのが女性用の下着である。
 渋谷駅にある東横百貨店の下着売り場に出掛け、これはと思うモノを見つけて購入するのが一苦労であった。こちらにヨコシマな気持ちはないのであるが、なんとも気恥ずかしい。目指す売り場を横目でニラミ品定めをして、「これ下さい」と間髪入れずに購入する。
 合宿所に帰り己の身体にヒットするかはいてみる、なんとも妙な気持ちである。
 また、仲間にはサポーターの内側に保護材・保温材として真綿を使用した者も居た、人それぞれ種々工夫改良して、オリジナルなサポーターを開発(?)した良き時代である。


 聖徳太子は定期券

 昭和32年12月、聖徳太子デザインの1万円札が発行された。
 当時、学生の1月の生活費が1万円から1万2千円であった。
 1万円札が発行されてからは、仕送りが1枚になってしまった。これを崩してしまうと何故か急速に消えてゆく、なくさなくする為には崩さないことである。まず、食費の支払いを2週間ほど待って貰う、寮費(合宿費)の支払いも2週間ほど待って貰うことにした。
 この外にその頃、渋谷から農大前までのバスの系統として、小田急バス・東急バス・都営バスが走っていた、その何れもが運賃12円でありバスガールが車内で切符を販売した。渋谷から乗車した場合、池尻にバスの営業所があるのでそこを通過してから「農大前までお願いします」と、おもむろに虎の子の1万円札を出す。「釣りが御座いませんので、次回ご乗車の折にあわせてお支払い下さい」と言って無罪放免となる。池尻前であればバスを止め換金行くので注意した。渋谷へ出掛ける時は、営業所を持たない都営バスを選んだ。月に1・2回はこの方法を利用した。
 また、体育会系が利用した大学の風呂場はいつも汚れているので、虎の子を握り近くの銭湯へ出掛ける。片道2`も行けば結構いくつかの銭湯があり、バスと同じような利用方法をとった。
 しかし、翌年には5千円札が発行され、この方法は長続きしなかった。

 鎌倉合宿

 12月初旬全陸上競技部員が集められた部室において、10名の正選手と4名の補欠が発表された。私は競技生活も短く試合経験も少なく、当然補欠であろうと決めていた。広瀬主将の口から「2区、榎本」と聞いた時、我が耳を疑うと共に、脈打つ鼓動が大きく聞こえ、嬉しいやら恥ずかしいやら複雑な心境で顔面が赤く上気したのを覚えている。他校を欺く為新聞発表するオーダーはアトランダムである、私の場合もスポーツ新聞には補欠ゼッケン番号 "13"となっていた。
 12月中旬、鎌倉市大町1-10-3鎌倉のマラソン会館(今井哲子様)に合宿入りした。今井様の家族はご主人と二人の小学生(男子)の4人であった。子供たちは良く私と気が合って、他愛のない遊びに興じた。実に家庭的な雰囲気の中での合宿であった。
練習は調整の為の速力を落としての走り込みが主であり、毎日、江ノ島方面へ練習に出かけた、足腰を充分に鍛える為に、たまには砂浜を走った、シューズの中に砂が入り傷をすることは避けねばならないので、シューズを手に持って素足で走ったりもした。試合直前でもありケガのない様、充分に気を付けねばならない
 大晦日の晩は、ラジオの紅白歌合戦を聞きながら、長袖のランニングシャツに『農大』と墨で書いた手製のゼッケンを縫付ける作業を、或る者は足の裏に出来たマメの治療に時間を割いた。
 試合前日、即ち昭和32年元旦の朝は、鎌倉八幡宮への初詣と必勝祈願のジョギングで始まった。正選手は午後夫々のスタート地点へと散っていった。

 試合当日と総合成績

 本大会に出場が決定すれば、競技部の主務(マネージャー)は競技部のOB、或いは競技部の関係向きへ出掛け応分の寄付を集めねばならない。合宿費用・試合当日の宿泊費用・伴走車の費用・栄養補給費用などなどに当てる為の資金で、短期間に募る必要がある。
 前年度9位までのチームには、本年度の出場権が与えられているので、それなりの募金期間があり優位な活動が出来るが、10月に実施される予選会から這い上がったチームは、募金期間が短く主務は精神的肉体的重圧を受けることになる。幸いにして当チームはシード権を持っていた為に、余裕を持って活動してきたが、それでも部の台所は火の車である。
 そこで、我々は試合当日の宿泊所は競技部OB宅に厄介になることで、費用の軽減を図った。選手の側からすると何の遠慮もしないで済む旅館が望まれるのだが、それも侭ならず試合前日から妙な精神的重圧を感じながら試合に臨むのであった。
 1区のスタートが8時、鶴見の中継点には9時20分前後と見て、4時間前の起床・3時間半前に朝食・1時間半前にアップ開始、と言う事を頭に入れて床に就くが、よく熟睡しないまま朝を迎えた。
 昨夜は冷え込み、今朝は市電の軌道にはシャーベット状の名残雪が積もっている。足をとられてスリップしないように、充分注意して走らねばならない。
 9時15分、12位の1区森下先輩が見えた。両頬を叩き気合を入れた、16分11秒にタスキを受取る。途中、早稲田大学と競り合い追い越すことが出来た。終盤苦しい、朦朧としそうな意識の中で3区の戸塚中継所である小高い丘が見えた。最後の力を振り絞りゴールに飛び込み、広瀬主将にタスキを渡す。
 競技経験のなかった私にとって始めての大きな試合が終った、タイムは1時間17分38秒、決して好成績ではなかったが自己満足である。襷を無事つなぐことが出来たのだ。また、諸先輩も喜んでくれて内心ホッとした。復路を合わせたチームの総合成績は9位、来年のシード権も獲得することが出来た。
 長距離陣のシーズンが終り、大学へ戻ってオレンジジュースで乾杯。